最近発売された「オタク成金」という本であかほりさとる氏のラノベ論がいろいろなところで話題を読んでいるようなのですが、現在絶賛再読中の「セイバーマリオネットJ」6巻と7巻の後書きに、作家を目指している人への苦言のような形で今回話題になっている部分とほぼ同じようなラノベ論が展開されていたので、需要があるかどうかわかりませんが紹介してみます。
「Half Moon Diary」さんの記事で引用されている部分では「ライトノベルのSF化」の項目にあたる部分なのですが、10年以上前に同じ問題について危惧を声明していた、というのはいろいろな意味で面白いかなあと。自分は「オタク成金」を読んでいないので的外れかもしれませんが、こちらはあかほり氏本人が自らの筆で書いた文章なので、興味のある人は読んでみると良いかもしれませんっていうかむしろ皆に「セイバーマリオネットJ」読めばいいと思う。(←これは単純に私が好きだからという話なので、「挿絵的にハードル高いよ!」とかその辺の話はまあ……確かにそうですねすいません。)
あかほり作品にしては珍しく完結してるし、下半分がメモ帳で読みやすいから12冊あっても安心ですよ!
次に思うのは、その作品がマニアックすぎるということです。彼らの前提にはこういう考え方があります。
「これはファンタジー小説だから」
僕などは登場人物がカタカナならファンタジー小説、などとたわけたことを言っている人間です。ここまでは極端としても、ファンタジーの知識がなくともそういう小説に触れる人間もいるでしょう。それなのに、高度なファンタジーの知識(またはSFの知識)が必要な小説を書いてきて「これなあに?」と僕がたずねると、「そんなことも知らないんですか」というような顔をする。おそらく彼からすればこのぐらいの知識は当然持っていなければならないんでしょう。もし、読者に対してもそういうスタンスだとすれば彼が認められる事はないでしょう。そういうものがやりたければ同人誌をやっていればよろしい。
(中略)
今、述べた事と同じく、もう一つは作品をやたらと小難しくする人が多いのも気になります。精神観念の世界をやたらと持ち出して、そればかりを強調する。わからないという人間は、やっぱり切り捨ててしまう。
そういった小説を否定する理由として
僕らの仕事の対象は子供です。子供にわかってもらえなければどうにもなりません。たとえば知っている人間からすればたるく感じる描写も子供のためには絶対必要なのです。そのことがわからなければ、この世界でプロを名乗ることはできません。
(中略)
エンターテインメント精神がまるでないのです。はっきり言いましょう。ヤングアダルト・ノベルズはエンターテインメントの世界です。サービス精神がなければ読者には喜んでもらえません。そう、“喜んでもらう”のです。決して、“教えてあげる”“わからせてやる”ではないのです。
40人のうち本を読まない35人が読める小説を云々という表現と言ってる事はほぼ同じだと思いますが、個人的にはこちらの表現の方がしっくりくるなあと思いました。まあただ、この辺は現在のラノベ読者層と当時のヤングアダルトノベルズの読者層って結構変わってると思うんで、ほぼ同じ主張をしてること自体はちょっとアレなのかもしれない。
彼らが例に出すのは必ず『新世紀エヴァンゲリオン』です。
「だってエヴァは……」
僕はそういうとき言ってしまいます。あなたと庵野さん(エヴァンゲリオン監督の庵野英明氏)ではレベルが違うよ、と。(中略)エヴァンゲリオンはちゃんとエンターテインメントをやってます。(中略)作品の中でも予告でちゃんと言ってるじゃありませんか。「サービス、サービス」と。
(以上、『セイバーマリオネットJ 6.乙女の奇跡・in・チャイナ』226P)
エヴァがあたえた影響って本当に大きかったんだろうなあ…と思った部分。
エヴァ前後で主流となる作品の雰囲気が変わった、というのはなんとなく学生時代に感じた記憶があります。欝でぐだぐだ悩む主人公があの頃を境に一気に増えたよね!とか。
このあと、巻を挟んで7巻の後書きでこのラノベ論に対する反応に対して反応。
前回、ボクが「高度なファンタジーの知識がなければ理解できない物語はだめ」と書いたところ、「そういう作品でももの凄く売れているものはある!」という指摘を何通かもらいました。
これに対する答えは“対象”というものを考えてほしいということです。すなわち、対象年齢、その売るべき本の対象となる趣味の持ち主——という意味での“対象”です。
極端な話、作家が一つの世界観、もしくはその作家の持ち味というものを確立し、明らかに自分の読者がそういった高度なファンタジー知識を要求する作品を求めているときはいくらでもそういうものを書いていいのです。それが作家の売りであり、それによって作家は自らの地位を確保するわけですから。ただ、そういった作家になるまでが大変なのです。
(『セイバーマリオネットJ 7.乙女心と秋の日々』207P)
つまり現在のラノベ界でいうと「K上稔さんだからしょうがない」とかそういう話ですか。「AHEAD」シリーズ以降のとっつきにくさはかなり半端ないと思いますが、確かにデビュー作の「パンツァーポリス1935」は結構読みやすかったし、段々ハードルを上げていったんだろうなあと想いをはせてみたり。
1巻の最初ウン十ページに設定資料集がついててニヤリとするのが川上稔ファンのたしなみだよね!(酷いオチ)
コメント
原初、ライトノベルはSFだった。
おまえは何を云ってるんだとか、おっさんいまさら何の話だ、と思うだろうと思うのですが、西暦1989年前後のことをちょっと思い出したのです。
例のオタク成金は全く読んでないんで、おかしな話になるかもしれませんが。
あかほり氏が活躍した角川スニーカー文庫・富士見ファンタジア文庫・電撃文庫が出現する前夜、今日のライトノベル的なレーベルといえば、今は亡き朝日ソノラマ文庫と現在ほぼ消滅状態のアニメージュ文庫ぐらいでした。(少女小説にも集英社文庫コバルトシリーズとかがあったはずですが、あいにくそっちには手を出していなかったので断言していいのか分からない。新井素子のだけは読んだことがあったけど)
レーベル抜きなら他の出版社からも当然いろいろ出ていたわけですが、SF寄りなアニメファンであった私が読んでいたのは、やはりそのようなものでした。
そんな中で出会ったあかほり作品、たぶんスニーカーのラムネ&40のどれかだと思うのですが、当時の感想は、「???何でこんな雑なものが売り物になってるんだ???」でした。
いやぁ、若い若い(笑)
アニメージュ文庫は多分にアニメ寄り・もしくはキャラクター寄り。
朝日ソノラマ文庫はSF的なものメインでありながら、伝奇あり・ファンタジーあり・学園ドタバタものあり・アニメノベライズも少しあり。初期にはミステリー(推理と分類されていたはず)ですらあり、といった風情でしたが、とにもかくにも他出版社のライトノベルやその近縁種も合わせると、SF系やファンタジーが強かったわけです。
まあ、異なる業界ではあったものの、まったくアニメと不可分という訳ではなかったのでしょう。
ちょうど80年代末ごろにアニメが冬の時代に突入したと云われるようになったのは、そこである種の成熟期を迎えてファンの嗜好が細分化していったのかなと思うのですが(ゲーム系の芽も出始めがこのころだったような…)、そこでライトノベルの間口をぐっと引き下げたのはあかほり氏の先見の明だったのかもしれませんね。
そんなこんなで同じジャンルが何年か隆盛を誇ると、そこで成熟期に至るまでは徐々にレベルが上がっていくのは当然。(でもいわゆるセカイ系以外は80年代のモノより随分ライトだと思うんだけどなぁ)
盛者必衰の理が連環するのは今に始まった事では無いという事。
乱筆乱文、長々と失礼いたしました。
いらっしゃいませー。私はまさしくスレイヤーズやあかほりさとる全盛期時代にライトノベルを読み始めた世代なので、ここ最近の「オタク論」話題自体にもちょっとピンとこないものがあるのですが、アニメージュ文庫やソノラマ文庫がライトノベルのさきがけ的な役割を果たしていたのですね。
今回の記事は「オタク成金の話題で盛り上がるなら、セイバーJのあとがきの話を皆が知らないでやってるのはもったいないなあ」と思ったのが主で、自分自身はあまり確固たる意見とかはないのですが(だから記事の内容も引用主体にして、自分自身のコメントは少なめにしてます)、各所の記事やはてブのコメント欄から自分にはない視点の人の様々な視点からの意見を見る事が出来て、とても興味深かったです。
コメント、色々と参考になりました。ありがとうございます?。