[著]深谷 晶子 [絵]くさなぎ 俊祈 戦争で崩壊した後の世界。とある街を統率している少年・海は娼婦の少女・椿、記憶を無くし“石”を持たない少年・シロと3人でささやかに幸せ暮らしを送っていた。二人との暮らしに満足しながらも、なぜか彼らとの決別を予感するシロ。そんな時、都から役人達があらわれて… |
シロや椿の幸せのためなら自分やその他の者を犠牲にする事を全くいとわない海、過酷な生活を送った結果として一部の感情が麻痺してしまっている椿を始めとして、終末に生きる人々の「狂気」みたいなのはとても良く伝わってくるのですが、物語の動きとしてどちらかというとそういう狂気的な美を全力肯定しているというか、心底かっこいいと思ってそういった美しさみたいなのを描こうとしている印象があって、それがなんか肌に合いませんでした。若いころ、一度はこういう退廃的で刹那的なものに美しさや憧れを感じてしまう時期があるもんだけど、作者の人はきっとそういう時期を抜け出せてないんだろうなあ。邪気眼的世界を卒業できていない人が、大真面目にやっている滑稽さというかそういうのを感じてしょうがなかった。私はやはり、「狂気」はどんなに美しくても、肯定してしまってはいけないものだと思うので。いけないものだと解って描くからこそ背徳的な美があるんじゃないのかなぁとか。
結局のところ何を言いたいかというとシロや椿の為に人を殺す海や、月華のために男と寝てる陽華が、自己犠牲の満足に浸ったまま物語が終わってしまってそんな彼らの姿を「キレイだ」「キレイだ」って両手放しで賛美してるのが嫌だったんだろうなあ。そんなのちっともキレイじゃないよ。いろいろと人間的なものが麻痺している椿は置いておくとしても、シロや月華にとってそういう優しさはいい迷惑だと思うんだよ…。
こういう作品に全く迎合できなくなってしまった私はもう若くないんだなあ、と実感。