[著]あかほりさとる [絵]ことぶきつかさ とある出来事をきっかけに“女性復活”の必要性を切実に感じた小樽はローレライの導きを受けて、西安にある「ホスト・ローレライ」のもとへ。ところが旅の途中でゲルマニアの新兵器『マスケル』の襲撃を受けて仲間とはぐれ、ライムとともに瀕死の重傷を負ってしまう。西安の外れに住む男の手によって一命を取り留めたが… |
学生時代に読んだときは一重に「マリオネットを愛してしまった男の悲劇」として読んでいたけど、今読むとあとがきのとおり、これが「読む人によっては“悲劇”であり、また“喜劇”である」という言葉の意味を理解してしまって、とてもやるせない。ヤンにとっての最大の悲劇(であり喜劇であるもの)は「マリオネットを愛したこと」じゃなくて「マリオネットも感情を持てるかも、というありもしない希望を抱いてしまったこと」なんじゃないかなあ。
ヤンは自分と鳳々の関係を小樽とライムの関係に見立て、「ただの機械を愛した自分」を正当化してしまうわけですが、感情(乙女回路)を持つライムとそれを持たない鳳々には致命的な隔たりがあるわけで。どんなにヤンが鳳々を愛したとしても、それに“彼女”が応えることは100%ありえない。それを無情にも突きつけてくるクライマックスは間違いなく“悲劇”であり、“喜劇”でもある。
同時に、この巻はこの後ライム達と小樽がシリーズを通して悩み続けなければならない「マリオネットである自分たちと人間である小樽は一緒にはなれないのか?」「小樽が愛しているのは“女”としてのライム達か、それとも“ライム達というマリオネット”なのか?」という命題がはっきりと言葉として与えられるお話でもあります。
…しかし、やはりこうやってこの巻を読み直すと、(少なくてもこの時点で)小樽が愛しているのはマリオネットじゃなくて『人間の女』だよなあ、と思う。実際、乙女回路の付いていないマリオネットであったなら小樽はその気持ちを貫きとおせたかどうか。ライム達はある意味、戦闘能力以外は完全な「人間」として描かれている気がして、彼女たちを普通のマリオネットといっしょくたにするのは微妙な気がして仕方がない…。